ポートレートは難しい。
何枚も撮っていると単調になってくる。どれも同じ写真に見えてくる。他人の撮ったポートレートと自分の撮ったものとの違いも殆どない。
もちろん被写体(モデル)の違いはある。カメラマンにとってそこに意味はない。
カメラマンの青山裕企さんは、女子高生の記号化を進め、顔を写さない写真を撮っている。被写体(モデル)の違いに関係なく、一般化された女子高生という属性を突き詰めた写真を撮っているのだ。
ポートレートを撮るとき、哲学者ソシュールの記号論を思い出す。彼は記号を、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)に分けた。シニフィアンは形や音、意味を運ぶメディアで、シニフィエがそれによって運ばれる意味のこと。
青山裕企さんは、シニフィアンとして被写体(モデル)を画一化するために顔を写さない。結果としてシニフィアンは女子高生というものに収束する。収束したシニフィアンで、強い意味(シニフィエ)を表演しようとしている。
一方、平凡なポートレートは、モデルというシニフィアンの違いはあっても、伝わる意味(シニフィエ)はありきたりで類似したものである。