記憶と記録

見えたことは事実ではなく自分というフィルタを通した記憶であり、さらに記憶は記録で上書きされる。写真とカメラ関係のブログです。

消費される写真と心に刺さる写真の違い

 「消費される」写真。記憶に残らない写真のことだ。

 

 あなたは他人の写真を何枚憶えているだろうか?私が写真を撮るきっかけは、写真雑誌に投稿された一枚の写真だ。"加奈ちゃん"と題されたその写真は、近所の女の子を写した感じのものだった。写真に撮られるのが恥ずかしかったのだろうか、はにかんだ笑顔をした中学生くらいの女の子が写っていた。それを見てこんな写真を撮れたら素敵だなと私は思った、その思いは今でも続いている。

 その写真は、素人の女の子を写したもので特別綺麗な女の子というわけではない。テクニック的にも甘いところがあるらしく、審査員からも写真の端の処理をもっとうまくやって欲しいといったコメントが記されていた。

 

 綺麗なものが写っていても記憶に残らない写真がある。下の写真はとあるカメライベントで撮ったもの。プロのモデルさんは奇麗だしポーズも決まっている。目にしっかりピントが来ており、きっちり3分割構図に収まっている。写真の教科書に使えそうな写真だ。この写真は多くの「いいね」をもらう。でも、見た人の記憶に残り続けるかというと良く分からない。

  綺麗なものを綺麗に撮るだけではそういう写真にならない。ここが写真の面白いところで難しいところだ。紅葉、桜、猫、子供、もともと綺麗なもの可愛いものを撮った写真は「消費される」写真になりがちだと思う。被写体の持っている魅力に満足してプラスアルファを載せていないからだろう。

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  「消費される」写真が悪い訳ではない。綺麗なものを綺麗に撮るのも相応の努力が必要だ。見る側も楽しいことが多い。私は、アイドルの写真って殆ど覚えられないのだが、見ているときは楽しい(むしろ、アイドル写真で記憶に残るようなプラスアルファをカメラマンが加えてはいけない)。

  綺麗なものを綺麗に真正面から撮るときもあれば、ストーリ性のある写真を撮るときもある、色々なものを色々な具合に撮っていけば良いのだと思う。記憶に残ろうが残るまいが、写真を見た人がハッピーになれば私は嬉しい。

 

お題「カメラ」