記憶と記録

見えたことは事実ではなく自分というフィルタを通した記憶であり、さらに記憶は記録で上書きされる。写真とカメラ関係のブログです。

喩えの感覚

焦点距離が違う二種類のGRがあることは、文章に置き換えたらどんな意味があるだろう? 
主語が二つ使えるのに似ているのではないか。「私」と「彼」のように。広角レンズのほうが主観的だとされているから、GR IIIは私で、GR IIIxは私たち、かもしれない。

【コラム】あなたが書いた物語 私たちが撮る写真/内田ユキオ | GR official | リコー公式コミュニティサイト (grblog.jp)

 

 焦点距離の違いを主語の使い分けに喩えた内田さんのコラム。内田さんのお話は、いつも叙情的だ。写真が感情を表現するものだとしたら、写真家の話す言葉が叙情的なのは自然なことだろう。

 

 喩え=レトリックについて考えるとき、いつも『レトリック感覚 (講談社学術文庫)』と言う本を思い出す。「風がそよそよと吹く」はレトリックだ。現実的には風はそよそよなど音をたてない。「そよそよ」は草木が揺れる様子を喩えている。レトリックを使うことは、新しい言葉を作っていることだ。既存の言葉では伝えられない感情がそおにあるから。

 

 小説『祝祭と予感 (幻冬舎文庫)』で、作曲家は頭の中の音は音符とは異なり、妥協して音符に落とし込んでいる、妥協できない音を生み出すために新しい楽器が作られてきた、とある。音符で音階は表せても、音色は表せない。頭の中は無限だが表現手段は有限だ。

 

 写真も有限の色と明るさと言う手段で、無限の感情を表すにはレトリックが必要なのだと思う。

 

これはストロベリーヒルと言う名の花。サーモンピンクから薄いピンク瞬く間に変化していく。色の変化を一枚に押し込んだつもり。つぼみ、右上の花、真ん中下の花で色合いが異なることに気づいてもらえると嬉しい。そして、ストロベリーヒルと言う名前に思いを馳せて欲しい。

使用機材 

Olympus PEN mini E-PM2