記憶と記録

見えたことは事実ではなく自分というフィルタを通した記憶であり、さらに記憶は記録で上書きされる。写真とカメラ関係のブログです。

世界はこんなにも写真で溢れているのに

 世界はこんなにも音楽で溢れているのに。

 (中略)

 わざわざあたしが音楽を付け加える必要があるのだろうか。

    (『蜜蜂と遠雷(上) (恩田陸)』より)

 

 これは、幼いころ天才と呼ばれながらも挫折したピアニスト栄伝亜夜のセリフ。

 

 私は、写真を撮っているとこのセリフを思い出します。世界の70億人が毎日スマートフォンで写真を撮りSNSでシェアしており、世界には写真が溢れています。そんな中で、私が新たに写真を撮る必要があるのでしょうか?

 きっと必要性なんてないんだろうし、世界にとって意味なんてものもないでしょう。

 

 『僕はピアノ好きだよ』

 『どのくらい?』

 今度は亜夜が聞く。

 『そうだなあ』

 風間塵は、ちらっと宙を見上げた。

 『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも引き続けていたいくらい好きだなあ』

 (同小説より)

 

  天衣無縫の天才ピアニスト風間塵は、好きだから弾くのだと言う。

 

  写真もきっとそうなのでしょう。好きだから撮る。それだけ。

 では、それをブログやSNSでシェアするのは何故? きっとそれはコミュニケーションなのです。一人で撮っているより、誰かと撮っている方が楽しい。

 

 

  表現まで気にかけながら真剣読みした小説は、数年ぶり。「私」や「わたし」でもなく「あたし」と栄伝亜夜は自分を呼ぶなど。

  写真も細部に神が宿る。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

  • 作者:恩田 陸
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: 文庫