記憶と記録

見えたことは事実ではなく自分というフィルタを通した記憶であり、さらに記憶は記録で上書きされる。写真とカメラ関係のブログです。

「じゃない写真」と「13歳からのアート思考」で最先端の写真表現を知る

 

 渡部さとるさんの「じゃない写真」は、最先端の写真表現の様子を教えてくれる。

 スマートフォンなどで写真を撮る人は多いと思う。そのたいていの人は「あれ?」と思う内容だ。誤解を承知で言ってしまえば、ピカソのようなちょっと良く分からない絵、それと同じ傾向が写真にも表れているというのだ。つまり「分からない」がキーワード。

 

 僕が一番びっくりしたのは、以下の部分。

 写真は、風景であっても人物であっても、三次元のものが二次元に再構成される。その際、三次元のイメージを保ったまま、あたかも、そこに存在するかのように見せる写真が理想的だと言われてきた。

(中略)

 しかし現代アートでは、多くの作家がそこから「自立」を試み、オブジェへの依存性から離れ始めた。

 

 例えば、僕は、一面桜の咲く風景に出会うと、この雰囲気をいかに写真に写しこむかを考えて写真を撮るのだけれど、今の作家はそんなことをしない。写っているもの(オブジェ)から、なるべく離れようと意図する。

 

 『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』によれば、ルネサンスの時代画家はいかに詳細に風景や人物を写し取るかをゴールに技術を発達させたが、19世紀になってカメラが発明されてこれに役割を奪われると、別のゴールを模索して現代アートが発達した。それと似た話に思える。絵画は、カメラの登場によって、「絵画でなければできないこと」を探した。そして、写真は、動画の登場によって、「写真でなければできないこと」を探している。

 写っているものを説明することを目的にするなら別に写真じゃなくても良い、別の手段、例えば動画の方が適している場合が多い。だから、写っているものを説明すること自体から離れようとしている。しかし、絵画と違って、カメラはシャッターを押すと何かが写ってしまうため、写真の苦悩は深いだろう。写ってしまうもの(オブジェ)から離れるって、なかなかできることじゃない。

 

まとめ

 『じゃない写真』は、現在進行形の写真表現の様子を教えてくれる。絵画で起こったことを教えてくれるのが『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』。絵画も写真も、目の前の風景や人物を詳細に写し取ることをゴールに発達したのに、途中でそのゴールを失い、写真(絵画)にしかできないことを模索している。

 

感想

 渡辺さとるさんが自身のYoutubeで、"現代アート化する写真を好きか嫌いかはあるけれど、それを知らないのはもったいない"と言っていた。「知らないのはもったいない」、確かにそうだ。まずは、食べてみないと始まらない。