記憶と記録

見えたことは事実ではなく自分というフィルタを通した記憶であり、さらに記憶は記録で上書きされる。写真とカメラ関係のブログです。

写真芸術はAIで飛躍するか?飛ばなければ終わりだ

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 画像生成AIが作った画像が写真コンテストで優勝 した。今後も、ますますAIは進化し、優れたビジュアルアートを生成するだろう。今後フォトグラファーは、どうすればよいのだろう?

 

 昔々、まだカメラが発明されていなかった頃、画家たちは風景がや肖像画を描いていた。如何に見たままの形をキャンバスに写し取れるかを競っていた。しかし、カメラが発明され、画家たちは途方に暮れることになった。カメラ以上に見たままの風景を写し取ることはできないからだ。

 画家たちは考えた。カメラにできなくて絵画にできることは何だろう? その問いの答えの代表がピカソだ。ピカソの変な絵は、複数の視点で見える情報を一枚に押し込めたものだ*1。まさにカメラにはできないことだ。

 

 森山大道の写真集「写真よさようなら」には、何が写っているのか、何を写そうとしたのかがほとんどわからない写真ばかりだ。写真は被写体に拘束されており、被写体から自由になりたかったのかもしれない。

 現代写真は、AIに負けないための取り組みだろう。しかし、一度作られた現代写真は、学習データとなってAIに取り込まれていてく。AIの枠外に出ようとする現代写真の試みは、かなり不利だ。

 学習データとして取り込まれない現代写真、そんなものに向かって写真は進んでいくのかもしれない。

*1:「ピカソは、胸もお尻もいっぺんに見たかった」と言われる。