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今回は、芥川賞受賞作家の柴崎友香さんの文章が掲載されている。
言葉と記憶とイメージとの関係は、わたしにとって常に心を惹かれるテーマだ。
言葉の力は強力で、思考は言語によって支えられている。そして、文字は思考を記録し人に伝えるメディアとなる。記憶やイメージは言葉によって強化され定着するため、記録によって上書きされていく。つまり、記憶や記録、イメージは、きわめて主観的なものである。
記憶の通りではなく、見ているつもりだったものではなく、確かにそこにあったはずの瞬間。それは、何度体験しても、まるで自分が見知らぬ他人に思えるような瞬間だった。
上は、写真について述べた部分。人の視覚は主観に影響され、見ているつもりでも見えていないもが多い。それに対して写真は主観に影響を受けず客観だ。撮り手に見えていなくても、そこにあるものが写る。無いと思ったモノがあったという写真を見るとは、自分ではなく他人がそこにいたその経験を見ているような思える。
以前、写真からあれこれを読みとって語るイベントに参加したことがある。
たとえば国語の試験問題のように意図を推測するのではなく、なぜそこにその車があるんだろうかとか、これはどういう状況だろうかとか、あくまでも写っているものについて考える。それだけでも、人によって読み取ることは違った。
知識があれば見えるものも違ってくるし、個人的な体験や感情が、写真があることによって、表に出てくる。
客観的にモノが写る写真であっても、それを読み取る際には読み手の主観・経験・知識が反映される。他人の写真を見たときの印象は、自分の中の蓄積物が色濃く反映されている。つまるところ、他人の写真であってもそれは自分を写す鏡である。
柴崎さんの文章を読んで、こんなことを感じました。