「見せない写真を撮る」という不思議なタイトルのエッセイを読んだ*1。写真家で木村伊兵衛賞も受賞している長島有里枝さんの文章だ。
タイトルを味わって欲しい。見せない写真を何故撮るのか?と。
アートも「虚構」を採用する。しかし、インスタグラムが承認を得やすい(「いいね」やフォロワーを増やせる)自己を構築しがちだという意味でも広告的であるのに対し、私の慣れ親しんだ表現には、承認されなくてもいいという「開き直り」がある気がする。誰に見せるあてもなかった写真を世に出そうとするとき、なぜ見せるに値すると思うのかという問いとの対峙は避けられない。このとき私の背中を見まもるのは、褒められないからといって存在価値が低いわけではないという信念だ。インスタグラム的な写真に慣れ親しんだ学生に伝えたいのはそのような表現のありかた、他人の共感が得られるあなたである必要は必ずしもない、ということかもしれない。
”誰に見せる当てもなかった写真を撮る”こと、写真を見せるに際して”それが値するのは何故かと問う””こと、これらを”ほめられないからといって存在価値が低いわけではないという信念”が支えると言っている。
ここで禅問答を一つ。曹洞宗では、なぜ座禅をするのかその理由について、何か効果を狙って座禅をするのではない、”ただ座るために座る”としている。
なぜ写真を撮るのか?なぜ写真をネットで公開するのか? 褒められたくないわけではないが、褒められることを目指すと何か間違うと思う。目指すのは好きな写真であり、良い写真ではない。好きな写真を目指して写真を撮る、そういうマインドで今はいる。見せても見せなくても関係ない写真を撮ろうと思う。
*1:2018年9月30日 日経新聞朝刊